ハイデガー入門
- 作者: 竹田青嗣
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1995/11/06
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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カンボジアで読んだ本。
抒情性、了解、語りを人間本質としたところ、もともと人間存在の本質は、自分の何であったかを問い、自分の何でありうるかを問い、自分自身の存在のありかたを気遣う存在であるとしたところは納得できる。毎日、自分の内面に目を向けて問いかけてみよう。
ドイツの哲学者、ハイデガー(1889年9月26日 - 1976年5月26日)の入門書。
ハイデガーは1927年に刊行された『存在と時間』で「存在とは何か」について解いた。のちにこれが「転回(ケーレ)」の問題と関わってきて謎めいた思想となってくきたのと、ナチズムへの関与が疑われているため、特に晩年については問題視されている。
- 事物の存在、存在的
- 客観的な存在とみなされている。存在者の何であるかを事実関係として問題とする。
- 心的な存在、存在論的
- 「それは何であるか」と問う存在。まわりの世界や諸事物をどのように対象かするかと考える存在。「そもそも実在物があるとはどういうことか」と問う見方。
- 人間の存在とモノや動物の存在との違い
- 意識をもつ生き物は常に周りの世界に欲望、関心、配慮などを払いながら生きている。周りの世界は相対的に対象かされる。
- これに加えて、自分自身の存在をも対象化する。自己意識を持っている。
- カント的認識
- 認識は、アメーバー→トンボ→猫→人間と、高等な生物になるに従って認識もまた高度になる。が、人間は「感性、悟性、理性」の形式が認識能力の限界になっているのでそれ以上正しく認識できない。正しく認識できるのは神様だけ。
- ニーチェ的認識
- 「客観認識」、「正しい認識」は存在しない。生物によって「認識の仕方」があるだけだ。
- フッサール
- 「客観認識」は否定したが、「存在」を根本的に根拠づけているものは何かを問うことで、認識を真と確信させる「意識表象の条件」は取り出せるとした。
- 人間は、本来、互いに実存論的な視線を投げあい、「私」と孫愛とを規定してい会っている「共現存在」であり、社会的な存在である。が、普通にはその本来性から離れて「世人」というあり方で存在している。
- 「現」:人間存在の根本本質.
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- 現の契機
- 情状性:気分。エロス。これが現象学の行き止まり。
- 了解:気分を受け取る、感じ取ること。
- 語り:「気分」自体が「言葉」によって分節された秩序であるから。語りは人間が互いに本来的に存在することを促しあうための契機であり、そのためには聴くことも必要。
- 現の契機
- 「頽落」:人間存在の特質。日常の人間の存在仕方。
- 空談
- 好奇心
- 曖昧性
- 本質を取り出すとは、人間の経験の中に存在する「本質」の「共通了解」をつくること
- 共通了解をつくることで様々なトラブルを乗り越え得る可能性がある
- 人間は、情状性、了解、語りという契機をもつことで、「自分はどういう存在であったか」、「自分はどういう存在でありうるか」を問うて存在している。これが人間存在のありかたの本質。
- 「死は現存在の最も固有な可能性」なのだが、人間は「世人」へと「頽落」することで「死の不安」から逃げている。この「固有な可能性」に目覚めることで人間はその存在の本来性をつかめる。
- 普段は頽落な存在ではあるが、もともと人間存在の本質は、自分自身の存在のありかたを気遣う存在である。
- 良心とは、「頽落」から身を離して自分の中の自己を「気遣う」声を聞くこと、自分の固有な「責めあり」を了解すること、良心を持とうと意識すること
- 自分の何であったかを問い、自分の何でありうるかを問い、この二つの了解が出会って自己と世界との「意味関連」が生成される現場が今である。その「時間性」によって気遣いが可能になる。
- ハイデガーは人間存在の「存在」が何であるかについて、それ以上遡行できないものを探究し、気遣いについて分析している。が、ここに「本来−非本来的」という考えがこちこまれたために循環論証になってしまっている。人間の「ほんとう」が何であるかは、** 人々が「ほんとう」という確信を生み出す心の条件を問い詰める**ことで得られるのでは?(著者の意見)
- 「他者との真の共存性」を共同体、民族の単位でとらえた。それ以上、それ以下の単位ではないのか?ナチズムへの関与はこの考え方と関係がある。